クラス・リポート04.11.13 |
レポーター=木枯狐(染矢) 作品の検討がテーマなのにその作品を読んでいない。そしてその報告を担当する破目になった。しかし、これを奇貨として次のようなことを試みようと思う。 ①まず、先生ご指摘の参考作品の松本清張の「張込み」と「地方紙を買う女」(光文社のカッパブックの松本清張短編集1、タイトル〈張込み〉と6、タイトル〈青春の彷徨〉の中に当該作品は含まれている)を虚心に読む。 ②次に受講生の山本氏の作品「合鍵の行方」を読む。 ③要領を得ないままに記録した先生の指導を再読する。 その過程をそのまま、レポートに書いて見たい。これは読み方として順序がまるきり逆でもある。 先生は最後に今年のミステリ界での成果となる作品を紹介されたが、これは詳述しない。詳述できない。理由は書かない。 また、別の問題だが、一度欠席すると次回の講座でなにをやるか、提出作品の検討ということが主眼となることはわかっていても、その作品の存在自体の情報不足と入手の手続きがはっきりしないと感じた。欠席者は不自由を感じる。腰痛で連続4回も休んでそう思った。これをなんとか改善したいと14日の朝の段階では、思っている。 その結果も末尾に記す。 14日昼前、「張込み」を読んだ。掲載は古い雑誌、新潮社の「昭和名作推理小説」。秀作として知られているので何度か目を通している。なかなか見つからず、探すのに30分、見つかると10分で読んだ。何度も読んでいるので早い。 地方の相互銀行の後添いとして退屈で自由のない日常を送っている女が、罪を犯した昔の男と会って一瞬の激情に身をゆだねる。男が捕まり、また平凡すぎる日常が戻る。そのシーンを描いて切ないところがある。 これまでそれほど面白いと思ってこの作品を読んではいない。今回読んでも、男が女に連絡をつけるその工夫の面白さを発見した以外はそれほど面白いとは思わなかった。それはさておき、問題はどうしてこの作品を参考作品として先生が挙げたかという点だ。 確か、一人称では描けないものが三人称で描ける。または三人称でないと効果をあげられないストーリーがある、または表現がある、ということだと記憶している。そういう目で今読んだのを再考すると、三人称で書かれた刑事の目の優しさが思い出される。再会の場面で彼は犯人を逮捕できたがしない。またふつうなら参考人として呼ばれる女の身上に心を寄せ、「(わたしが)適当にします」といって間に合うように家に帰す配慮をする。一人称ではこの優しさは出ないか、または嫌味にもなりかねないのか。三人称でその味わいがでるというのか。多分そうだろう。わたしは十分に理解していないが、その刑事の感懐なので、最後の、平凡な日常に帰るという数行が切なく響くのだろう。文中一言ももの言わない女の気持ちが、惻々と伝わってくる。 作者は警察の現場の動きに詳しい。一つ一つが自然だ。この作品を先生が選んだ、もうひとつの隠された理由だと推測した。 わき道に逸れるが、清張の文章はくどくない。上記、「適当にします」などはわたしは到底使えない。「(事情をくどくど説明し、)わたしに任せてください」などというところだ。簡潔さはわたしの好きないしいひさいちの漫画の台詞に通じている。 次の「地方紙を買う女」は明日買う。前に読んで、「張込み」などより数段面白く感じたのを憶えている。 「地方紙……」は昨日買って、これも15分ぐらいで読むだけは読んだ。 続きを16日、書いている。 面白かった。読みやすい。張込みには謎がないが、これにはある。主要な人物が二人登場するが、人称が問題になるのはここでは男の推理作家の方だろう。女は犯人なのでこれを一人称にすると、興味は謎解きとは違うサスペンスになる。 読んで行くと、先生が黒板に書かれた数行が、浮かんで見えた。罪を犯した女の心象風景を描いた箇所だ。「彼女の眼には、一隻の船が波を裂いてよぎっていた。近ごろはそれが夜も昼も、それが眼にうつる。ドレスの胸に手を当てると動悸が苦しいくらいに打った。」 これは一人称では書けないということだと思うから、先生は女を一人称で書いた場合、つまりサスペンスの書き方を想定していたことになる、そうわたしは判断した。 この後男は女の謎を解くことになるが、意外性を狙った結末を迎える。ただ、昔と違って先が読めたのは前に読んでいたからだろう。 ②に移る。楽しみだ。二度読んだ。一度目は単なる読者として、二度目は書き手の立場で分析的に。人物の相関図と、主人公の立場での事件略史も書いた。分析する姿勢は、前述、虚心に、なるべく先生の評言も思い出さずに。下にその結果を書く。 (a)事件の構図は完璧で考え抜かれていて、破綻がない。このまま、テレビに二時間ドラマにすることも可能だ。 提出者の要請により、内容に関する記述をカット。よって文意はつながらない。 参考図書 「張込み」について:人間の二重性を示す最後の二行「──この女は数時間の生命を燃やしたに過ぎなかった。……そして明日からは、そんな情熱がひそんでいようとは思われない平凡な顔で、編物器をいじっているに違いない」は一人称では書けない。 「地方紙を買う女」:前述の「一隻の船」のシーンが紹介されている。これは神の視点であり、客観的な第3人称の視点だ。このような情景は一人称では書けない。 結論として客観3人称で書き直すことを奨める。 〈下流から上流へ遡行して来た、今の小生の感想。〉 ○いい悪いは別として、松本清張、森村誠一作品には泣かせる動機や、破滅する人間への愛惜がある、ように見える。その傾向がある。山本作品にはそれがあまり描かれていない、ように見える。このことと、一人称、三人称描写はどこかで繋がっているところがある。しかし、明瞭とはいえない。ともかく、実践するとわかってくることがあるだろうと感じている。いま書こうと思っている作品があるので、その作品でいささかでも実践してみたい。 追伸 欠席された方のために 次回は井上一三さんの長編「邪馬台国殺人事件」と、まだ扱いがはっきりと決まっていませんが、川端康成の掌の小説の中の「霊柩車」にヒントを得た作品(6人提出)が用意されています。 作品の入手は東急BEのHさんに連絡してください。原本のあるものは、直接でももちろんいいし、郵送もしますとのことです。 また、作品の提出がない時など、この本を読んで置くようにという指示がありますが、これについては情報があれば、一括して生徒さんへの問い合わせには応じられますとのことです。 生徒の誰かがHさんに連絡すればいいことなので、場合によって小生が引き受けてもかまいません。 またメールの添付ファイルの場合もありますが、これは送付のとき全員に送ればいいので、問題はないと思います。ただし、送付漏れのある場合、救済できません。この場合も作品はメールで送った、届いていない方は、誰それへメールで請求してくださいという情報をHさんに伝えておけば磐石です。 |
by eimu00
| 2004-11-27 09:50
| 04年度
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